1961年創業時から今日までのさくらゴルフをご紹介いたします。
山あり谷ありの半世紀の歩みをご覧ください。
日本のゴルフの起源は、今から100年以上前の1903(明治36)年、英国人の茶商アーサー・ヘスケス・グルーム氏が数人の友人と六甲山上の別荘近くに作った神戸GCの開場によります。
ゴルフ場ができることでゴルファーが集まり、自然とゴルフクラブのニーズも高まっていきました。
当時、神戸に近い姫路地区は、日本古来の名刀鍛冶の鍛造技術が発達していたために、アイアンヘッド製造に非常に適していました。
その姫路でいち早く1930(昭和5)年にアイアンヘッドの製造を始められたのは、森田ゴルフの森田清太郎氏と日本ゴルフの松岡文治氏でした。
その後、時を経て1957(昭和32)年、霞ヶ関CCで開催されたカナダカップ(現ワールドカップ)で、中村寅吉、小野光一の日本人ペアが個人、団体戦で完全優勝したのがきっかけとなって、日本にも本格的なゴルフブームが到来します。それ以降、日本中にゴルフ場が続々とオープンして日本のゴルフ熱は急速に高まりますが、それまで売られていたクラブは高額な舶来品ばかりでした。
誰もが気軽に買えて性能の良い国産品を作ろうという機運が高まり、昭和20年代後半より姫路では多くのゴルフメーカーが誕生していました。1961(昭和36)年に創業した弊社(当時はさくらゴルフ器具製作所)も、その黎明期に誕生したゴルフメーカーの一つです。
創業者である私の父、植田 登(現会長)は、米穀店で15年間働いた後の転身というユニークな経歴を持っており、ゴルフはまったくの門外漢でしたが、「やるからには徹底的に優れた商品の開発をする」の信条で、試行錯誤を重ねてアイアンヘッドを製造し、それを自ら東京のゴルフショップやメーカーへ売り込みに行っていました。マツダゴルフやシントミゴルフが創業時のお客様であったようです。後にアルペン、ブリヂストンスポーツ、ダンロップなどのクラブメーカーとの取引も始まり、紆余曲折もありましたが、皆様方のご支援を頂戴して業績をあげることができました。
創業10年後の1971(昭和46)年からは、メイン商品をパターに転換しました。10年間培ってきたアイアンヘッド作りのノウハウと最新設備による革新的な技術との融合で、弊社は名品を次々と開発していました。OEM(相手先ブランドによる生産)が中心のため、一般ゴルファーにはブランドメーカーとしての馴染みは薄いですが、1970年代の日本のパター業界ではシェア数十%を獲得していたようです。
1977(昭和56)年には、姫路地区のゴルフメーカーの親睦友好を目的に「姫路GM友好クラブ」(初代会長が植田 登)が発足し、会員65名で業界の発展のために邁進してまいりました。
1978(昭和53)年に私、植田弘造(現社長)は弊社に入社しました。当時はゴルフクラブのことを全く知らず、モノ作りや営業などいろいろな経験を重ね、また周りの方々に助けていただいていました。
私が入社間もないころから、台湾メーカーが低価格を武器にクラブメーカーへの販売攻勢をかけてきました。人件費の安い台湾メーカーには価格では太刀打ちできず、存続の危機を心配した時期でした。しかし弊社は、創業時の信条である高品質な製品作りを守り続けてきました。
私は入社後約20年間様々な現場を経験した後、1995(平成7)年に社長に就任することになりました。将来に不安を抱きながら就任したことが今でも記憶に残っています。しかし、そんな不安とは裏腹に、製造の職人や営業員の努力が徐々に表れてきて、高額の高品質パターのOEM受注が増加していきました。
弊社でこれまでに手掛けてきたパターは600種類を超えます。特に削り出し加工やミーリングフェース加工のモデルは高い評価を受け、多くのツアープロにご愛用いただいております。
設計のコンセプトは「安心感」で、パットが苦手なアマチュアでも構えやすく、スクエアにヒットできるような形状や構造にこだわっています。
最近では、アイアンやウェッジにも力を入れています。もともと創業時は鍛造アイアンヘッド製造でスタートしたので、繊細なショットが要求されるアイアンやウェッジの製造についてはノウハウがありました。
一般ユーザーからの注文にも対応しており、きめ細かい対応で使い勝手の良さを目指しています。
今後は、性能を決める素材・製法だけでなく、見た目のデザインや表面処理など、新しい方向性を追求していきます。
代表取締役植田弘造
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